mako2270’s diary

趣味は声優さんがお話するのを座って聴いたり眺めたりすることです

JUNCTION~早見沙織の歌う、世界の終わりと祝福

先日、早見沙織さんのコンサートに行ってきた。以前から彼女の歌をきちんと聴きたいと思っており、アニサマや小規模なイベントで聴いたことはあったが、機会が合わず行き逃していた。

以前、彼女の歌を初めて生で聴いたとき、まず印象に残ったのは圧倒的な歌唱力だ。ぼくは声優のライブには何百回と行ったことがあるが、一言、圧倒的という言葉が一番初めに思い浮かんだ。

抜群の声量を持ちながら、それに頼らず、弱く擦れた歌声まで自由自在に、歌うというよりもその場に適切な "声" を出すことができる。それは一つの歌詞のレベルではなく、音にならない一瞬の間も含めて、全てが考え抜かれているような "声" の表現となっている。

こう書くと少し面白みの無い歌のように聞こえるかもしれないが、彼女の歌はとても自然な感情に満ち溢れている。早見沙織という人のぼくのイメージは、いつも穏やかでノーブルな(これは以前上坂さんが言っていた)、ゆったりして少し世間ずれしてふわふわしている人、というものだった。だが彼女の歌はそんな一面の他にも、熱く力強い一面や、感情的に強く悲しむ一面といった多彩な表情を見ることができる。ツアーのパンフレットでも黒須克彦の彼女の第一印象として「とてもエモーショナルに歌う方だな、という印象を持った」と書いてあった。

ぼくは今回のツアーは全公演(4/6広島、4/7大阪、4/13札幌、4/29東京)に参加した。はじめは1公演の参加でもいいかなとも思っていたけど、期待に胸を膨らませたぼくの想像を超えるパフォーマンスに、気がつけば全公演に参加することとなっていた。

彼女が「JUNCTION」の「交差点」としての意味をこんな風に語っていた。

コンサートという場は、昨日は全然違うことをしていたたくさんの人が会場に集まって、この瞬間を共有して、そして明日はまたそれぞれの道を進むことになること。

「JUNCTION」というアルバムは、色んな方向を向いた楽曲が一つのパッケージにまとめられたものであること。

また今回のコンサートで、ステージで鳴っている音は全てステージ上の人が鳴らしている生の音だ、という話もあった。「JUNCTION」の話と絡めて、その場にいるお客さんの声も含めて、今この瞬間に鳴っている音が、この場、この瞬間だけの音楽だと話していた。

だから彼女は頻繁にマイクを客席に向けるし、手拍子を煽る。たぶん彼女はそれが無くてもステージ上だけで完璧に素晴らしい音楽を完成させる気持ちがあることは、そのステージの質を見れば明白だった。だけどぼくはツアーを重ねて、それでも彼女は客席にマイクを向け続けるのだろうなと強く感じた。

どの曲もとても魅力的で、その一つ一つの魅力は本当に書ききれないほどあって、ぜひ誰もに彼女のコンサートに足を運んでほしいなと思った。

ぼくは「琥珀糖」と「Blue Noir」が好きです。

 

で、ツアーの話はこの辺にして、本題に入りたい。ぼくが書きたいのはその中で描かれた3つの曲、「白い部屋」「祝福」「interlude:forgiveness」のお話。コンサートに参加した人は承知の通り、この続けて3つの曲には特別な演出があった。その意味を読み取りたいと思ったのが、今回の主旨となる。

 

白い部屋(歌、作詞、作曲:早見沙織

"世界の終わりに君を見る"

印象的なフレーズに始まるこの曲は、最初から最後まで一人の人間の感情を描いた曲である。にもかかわらず、コンサートでここからの3曲で映されたプロジェクションマッピングに、人間の姿は一切出てこなかった。映し出されたのは山、雪、森。人間の姿はなく、ただ自然の風景が映されるだけだった。

彼女はインタビューで「白い部屋」は「White Room」というより「Vacant Room」というイメージだったと話していた。

"世界の終わり"

それは "君がいた私の世界" の終わりである。がらんどうの真っ白な部屋は、君がいなくなった後の私の心。そこにはただ何も無いのではなく、逆にそれまでに部屋に沢山の想いがあったことが伺え、その空虚さがより際立って示される。

昔、その部屋で夢見た未来は棄てられて、育てていた花は枯れ果てて、残っているものは何も無い。それでも唇は、その部屋でそれまで積み重ねてきた沢山の言葉を憶えている。

けれど、無力にも届かなかった言葉も憶えている。そして、どうしても、どうしても言葉が届かなかったとき、私たちは何も言わずにおし黙るしかなくなる。

そして、人間は忘れる。白い部屋には何も無くなり、私にどれだけ強い想いが残っていたとしても、時が経ち、忘れる。忘れがたい気持ちも、"どこにもいかないでいて" という願いも、いつか忘れる。君がいない世界では。

そんな世界の終わりに、君を失った私の姿を歌った曲。

いわば、別離、喪失、失意の歌。

 

祝福(歌、作詞、作曲:早見沙織

難解な曲である。しかしながらこの曲も、前曲から引き続き "私" の心を歌っている。そして画面に映されるのは、深海から空の上の風景。世界の端から端の風景が映し出される。そして、そこに人間の姿は無い。

"きっと明日が来れば全てが変わる"

この曲で何度も繰り返されるそのポジティブな言葉は、しかし彼女の声音から文字通りの意味を受ける人はいないだろう。

それは願望である。どうしようもない今を生きる私は、"きっと明日が来れば全てが変わる" と願う。降りしきる雨もいつかは止むとただ願う。もしかしたら、叶わぬ願いと思いながら。待っていれば、祝福があると望みながら。

この歌のターニングポイントはバッハの「主よ、人の望みの喜びを」のフレーズである。このフレーズが流れ始めたと思った瞬間、フレーズはかき消され、それまでに映されていた自然の風景は姿を消し、画面がただ赤く染まる。そして彼女たちの影だけが残る。

そして、"きっと明日が来る" は、"いまに明日が来る" となる。

赤は人間の激情、本音である。明日にあるのは私の願望通りの世界ではなく、碌でなしの渦が待つ世界である。私たちはなりふり構わず、あらゆる思惑から外れたその未知なる世界へ、飛び込まないといけない。

そしていつの間にか、赤く染まった画面は、青く染まる。彼女はそのとき "希望だけが残る旅路" と歌い終える。目をそらさないこと、そこから全てがはじまるのだと思うし、それから本当の希望に向き合えるのだと、彼女は歌っているのだと思う。

むやみやたらで盲目的な自身の願望を幸福であると認識するのではなく、未来はろくでもないと理解しながら、それを受け入れて前に進むことそのものを祝福としているのではないかと、ぼくは思う。

 

interlude:forgiveness

また、ここで自然、世界が画面に映し出され、interludeが流れる。

2曲で歌い尽くされた感情に対する、「赦し」があることをこのメロディが示しているのだと思う。

 

まとめ

3曲を通して、ぼくらはステージ上の早見沙織やバンドメンバーの姿をおぼろげにしか見ることができなかった。ぼくらは目に映る映像と、彼女の歌声を聴くだけだった。そこには彼女という個人は薄れ、彼女の声のみが聞こえ、最後のforgivenessではただ楽器の音のみが流れる。

別離を "世界の終わり" と歌う「白い部屋」。

盲目的な自身の未来の幸福を願うのではなく、あるがままの世界に立ち向かうことを希望とする「祝福」。

これらはとても私的な歌だ。この歌を聴いた人はこの歌詞から少なからず自分の経験に基づいた情景を思い浮かべてしまうのではないだろうか。しかし、自然を映す映像を見ることにより、ぼくたちは個人に結び付く特定の人間の情景を想像することが薄められる。

つまり彼女の歌を聴いた際に、ぼくたちは個人の経験という最も実感のある切り離しづらい体験から、視座を上げて人間の感情そのものに純粋に向かい合えるようなお膳立てがされていたのではないかと思う。

 

このコンサートにおいて、最後の曲は「温かな赦し」だった。おそらくこのコンサートの主題は「赦し」なんだと思う。ただ、ぼくはこのコンサート全てを咀嚼することはできていない。このコンサートにおける「赦し」はぼくにはわからなかった。でも、この3曲に対する「赦し」は少し理解できる。

 

失意の底の心を歌う「白い部屋」。世界に立ち向かう私を肯定する「祝福」。

これらの曲は、人間が心を擦り減らした先の一つの結論である。正解のない問答の後に、それでも「赦される」べきなのだという意味ではないかと、ぼくは思う。

人間は人間との関係の中で生きなければいけないし、その中で赦し赦されあっている。だけど、人間だからこそ赦せないこともある。赦されないことをしてしまうこともある。それは、いつまでも赦されないことなのか。

それでも赦されるのだと、赦してくれるものがあるのだと、歌っているのではないかと思う。それは神様なのか音楽なのかわからないけれど、それでも赦してくれる存在があることは、ちっぽけな人間にとっては心強い。

 

おわりに

ぼくは、彼女は表現の先に普遍を見ているのではないかと思っている。彼女の歌はどれも極々私的な感情を生き生きと歌いながらも、見据える先に普遍があるのではないかと思っている。

それはどこにでもありそうで、どこにも見当たらないような、とても貴重なものだと思うので、彼女のこれからの行く先に従って、その美しさを見させ続けてほしいなと思った。